SHIMANE VIRTUAL MUSEUM しまねバーチャルミュージアム企画コーナー

石見銀山
トップページサイトマップ

石見銀山に関連する加盟館
銀山マップ石見銀山の歴史銀山の開発銀山絵巻石見産の銀貨ゲーム
16世紀江戸時代以降
江戸時代の石見銀山
○幕府による銀山の直轄化
 徳川家康は1603年に江戸に幕府を開き、全国の都市や鉱山、森林資源など重要な箇所を直轄地(天領)としました。 石見銀山も貨幣の原料を確保するために直轄地となり、他に佐渡や生野の鉱山もありました。 直轄地には奉行所(のちに代官所)を設け、幕府から派遣された奉行・代官が支配を行いました。
勝源寺
 大森町内の勝源寺境内の裏山には東照宮があり、徳川家康から12代将軍までの位牌が安置されています。
勝源寺
○初代奉行大久保長安
 石見銀山の初代奉行には大久保長安が任命され、銀山の支配にあたりました。 長安は個々の間歩経営を奉行所に直接管理させて新しい生産の仕組みを築きました。また最先端の技術を導入するなど積極的な政策によって、この江戸時代初期にシルバーラッシュがもたらされました。
○江戸時代の支配体制
 銀山は当初奉行によって支配されましたが、江戸幕府の機構改革に伴って、柘植伝兵衛の頃(1675〜1682)からは代官支配に移行しました。
 一般の直轄地は代官とその部下の手附・手代という役人によって支配されますが、鉱山や山林など特別な業務を行う代官所ではそのことに詳しい者を役人に採用することができました。 その役人を地役人といいます。

 石見銀山の代官所の地役人は、地元石見出身者の他、遠く大和・武蔵・甲斐などの出身者もいました。 これは初代奉行大久保長安が、他の支配する地域から優秀な人材を呼び寄せ、その人がそのまま定住したからです。

 また逆に、石見銀山の鉱山技術に精通した地役人は各地の鉱山(佐渡・足尾など)に派遣され、そこで開発や経営にたずさわりました。
全国の鉱山
○井戸平左衛門
 井戸平左衛門は享保16年(1731)に第19代大森代官となりました。翌享保17年(1732)は享保の大飢饉といわれる凶作にみまわれた年でした。 井戸平左衛門は飢えに苦しんだ領民を救うため、年貢を免除したり、自らの財産や裕福な農民から募ったお金を資金として米を購入しました。さらに幕府の許可を待たずに代官所の米蔵を開いて飢えた人々に米を与えました。
 また、サツマイモの栽培は他の作物と比べて労力もいらず多収穫で肥料も少なくて済むことを知り、 当時薩摩国以外への持ち出しは禁止だった甘藷(サツマイモ)を、苦労していちはやく石見へ持ち帰りました。 このおかげで石見銀山領では餓死者がいなかったといわれます。

 井戸平左衛門は享保18年(1733)に亡くなり、代官勤務は1年8ヶ月とわずかな間でしたが、この地方では今に至るまで「いも代官」「芋どのさん」と呼ばれ慕われています。大森町には井戸平左衛門を祀った井戸神社があります。

井戸神社
井戸神社
○武士と商人
 江戸時代には、武士は城下町に住むことが義務付けられていましたが、大森には城がありませんでした。そのため地役人の多くは代官所の近くに住みました。大森の町は代官所の役人や熊谷家などの商人が結びついていました。
代官所
 代官所は政治をする場所と日常生活をする場所(風呂・トイレなど)が共存していました。 また「無名異(むみょうい)製法所」という薬をつくる場所もありました。
銀産量の推移
 江戸時代初期にピークを迎えた銀産量は次第に減少していきます。良鉱が乏しくなる一方、さらに良鉱を求めて深く掘り進みますが、排水など多くの経費もかかり、採算に合わない間歩は休山となりました。幕末頃の銀産量は年間約100貫(約375s)に満たない状況でした。
近代の石見銀山
 明治維新後しばらくは江戸時代と同じ状況で経営が行われましたが、1873年「日本坑法」の施行で、近代的な法制度のもとで銀山の開発が行われるようになりました。

 1887年、大坂の藤田組が経営に着手し、1896年には当時20万円という巨額の資金を投入して清水谷製錬所を建設しましたが、成果が上がらずわずか1年で操業が停止されました。

 そして1923年に休山となりました。
前へ
ページの先頭へ
(c)しまねミュージアム協議会