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石見銀山
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16世紀江戸時代以降
 16世紀に発見され、開発が進められた石見銀山。世界や国内にどのような影響を与え、またどのような軌跡をたどったのでしょうか。
石見銀山はなぜ16世紀に開発されたのか
 16世紀に石見銀山の開発が始まった背景には、東アジアでの銀の需要の高まりがありました。

○中国の銀の需要
 当時中国(明)では北方から遊牧民が侵入してきたため、軍事金として銀の需要がありました。それまでは銅を貨幣としていましたが、海外に流出しすぎて国内では枯渇していました。そこで紙幣にしましたが、紙幣は信用がなく、やがてインフレが起きて紙くず同然となりました。そして役人は銀を貨幣とし、税も銀で納付することになったため、中国では銀の爆発的な需要が起こりました。
○日本では
 一方、日本の周防の国に大内氏という大名がいました。 大内氏は博多の商人と結び、中国と貿易を独占的に行っていました。 その商人の中に神谷寿禎という人物がいて、彼は中国で銀の需要があることを耳にしていました。

 当時、中国との貿易(日明貿易)では、銅が主要な輸出品でした。 寿禎はその銅を鷺銅山(島根県出雲市 出雲大社の近くの銅山)で購入するために日本海を航海していましたが、その途中はるか南の山が輝くのを見つけました。

 驚いた寿禎が船頭にたずねたところ、それは銀峯山(仙ノ山)という名で、かつて多くの銀が産出されたことを聞きました。そして寿禎は技術者を引き連れて、1526年に仙ノ山で銀鉱石の採掘を行いました。
石見銀山の発見

 当初採掘された鉱石は博多あるいは朝鮮半島に送って製錬していました。しかしコストがかかるため、寿禎は1533年に宗丹・慶寿という2人の技術者を博多から招き、灰吹法という製錬方法を導入しました。 灰吹法の導入によって銀山の産銀量は大幅に増加し、やがてこの技術は佐渡や生野など各地の鉱山に伝えられ、日本の鉱山技術に一大変革をもたらしました。

 17世紀前半になると日本での銀生産は年間20万sにのぼり、世界の銀生産量の3分の1に相当しました。
石見銀山と世界の関わり
 16世紀初め頃まで日本は銀の輸入国でしたが、灰吹法の導入後、銀の輸出国になりました。 一方ヨーロッパでは15世紀、コロンブスやバスコ・ダ・ガマによる新大陸発見で大航海時代が始まり、ヨーロッパ諸国による海外進出が活発化していました。

○ポルトガルのアジア進出
 ポルトガルは香辛料を求め東南アジアに進出し、さらに中国にも通商を求めましたが実現しませんでした。 そのためポルトガルは正式な貿易ではなく、中国南部の商人と密貿易を行いました。 彼らは中国・朝鮮・東南アジアなど、多民族からなる密貿易集団で「後期倭寇」と呼ばれました。後期倭寇は海賊行為も行う武装集団で、ポルトガルもそれに参加しました。

 やがてポルトガル人は、石見銀を始めとする日本銀のことを知り、1543年種子島に訪れ、日本に鉄砲を伝えます。

鉄砲伝来
そのころ日本は戦国時代でした。戦場に鉄砲が取り入れられ、戦闘方法が大きく変わりました。
○銀の世界的流通と日本銀
 ポルトガル人が種子島へ上陸してからは、ポルトガルのアジア貿易は日本銀を中心に三角貿易を展開するようになります。
 @まず、中国で安い生糸を購入します。
 A生糸を日本に持ち込んで、銀と交換します。
 B日本の銀をもとに、中国産の絹織物や陶磁器、東南アジアの香辛料を買いつけます。
 Cそれをヨーロッパに持ち帰り、大きな利益を得ました。
南蛮文化の伝来
 16世紀から江戸時代にかけて制作された洛中洛外図には、京都の町なかや郊外の様子が描かれ、 その中には貿易のために日本にやってきたポルトガル人(南蛮人)の姿もあります。彼らによって持ち込まれた南蛮文化は現在でも日本で親しまれています。
(例) カステラ ジュバン ジョウロ バッテラ ガンモドキ コンペイトウ テンプラ オルガン カルタ カボチャ
これらの言葉は、元はポルトガル語が起源だったのです。
洛中洛外図屏風左隻洛中洛外図屏風右隻
洛中洛外図屏風[誓願寺本](島根県企業局蔵・島根県立美術館寄託)
南蛮人行列 赤まるで囲った部分を拡大したもの。南蛮人行列の様子が描かれている。
ヨーロッパで紹介された石見銀山
 1549年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルは日本にキリスト教を伝えました。 ザビエルはインドにいるロドリゲス神父に宛てた手紙の中で「カスチリア(スペイン)人は日本をプラタレアス群島(銀の島)と呼んでいます」と紹介しました。

 また、1595年にベルギーで作成された「テイセラ日本図」には石見銀山が表記されています。

 さらにイギリス商館長リチャードコックスの日記には「ソーマ銀」という日本銀についての記述がありますが、これはかつて石見銀山は邇摩郡佐摩村にあり「佐摩銀山」と呼ばれていたからだと考えられています。
テイセラ日本図
テイセラ日本図

石見銀山部分
矢印部分を拡大したもの。 「Hivami(石見)」の上に「Argenti fodinae(銀鉱山)」という記載がある
戦国時代の石見銀山
 石見銀山の開発が始まった頃の日本は各地の戦国大名が戦いを繰り返していた時代です。
 国内での銀流通が盛んになると、戦国大名は軍事金として銀を用いるようになり、石見銀山は周辺の戦国大名の標的となりました。

 銀山の採掘が行われた仙ノ山の真向かいに位置する要害山は、石見銀山を見張るには格好の場所であったため、ここに山吹城が築かれました。そして山吹城を舞台に争奪戦が行われ、銀山の領有はめまぐるしく変わりました。
石見銀山遠景
勢力図  初め周防国の大内氏が銀山を支配していましたが、大内氏が滅びた後、出雲の尼子氏と安芸(広島)の毛利氏の取り合いになり、1562年毛利氏が銀山を手中におさめました。

 1590年豊臣秀吉が全国を統一してからは、毛利氏は豊臣氏の大名として中国地方を支配し、銀を豊臣氏へ納めました。
世界文化遺産 厳島神社
 毛利氏は、現在世界文化遺産で知られる厳島神社(広島県)を信仰していたため、毛利氏の支配していた時代は厳島神社へ多くの石見銀が寄付されました。現在も奉納された銀の狛犬があります。
 1600年の関ヶ原の戦い後、銀山は徳川家康の支配下となります。
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