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2010.2.15 |
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中世益田の旅 |
中世の豪族、益田氏の本拠地、室町後期の画僧・雪舟など、文化遺産が数多くのこる益田市。
益田市の中世遺跡や加盟館を紹介します。 マップやコース上のスポットをクリックすると詳細へジャンプします。 |
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益田市歴史民俗資料館((旧美濃郡役所) 国登録文化財) |
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中世益田を知るならまずはココ!! 益田市立歴史民俗資料館は大正10年に建てられた美濃郡役所を改装して昭和58年5月に開館。美濃郡役所は、江戸時代に浜田藩の代官所が在った場所に建てられた。
中世益田氏関連遺跡の発掘調査出土品、郷土の焼き物、喜阿弥焼・白上焼、郷土の偉人として田畑修一郎(作家)・徳川夢声(芸能文化人)・岩本薫(棋士)の関連資料を常設展示している。 建物は平成8年、国の登録文化財。
【所在地】益田市本町6-8 【駐車場】有 【問い合わせ先】0856-23-2635
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2 | 万福寺(本堂:国重要文化財 庭園:国指定史跡及び名勝) 雪舟三大庭園のひとつ |
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現在の本堂は応安7年(1374)、もと同市中須にあった安福寺を益田家第11代兼見(かねはる)が時宗に改宗し現在地に移転改築したもの。鎌倉時代の様式を残し桁行・梁間とも7間の一重寄棟造りで、時宗としては全国的にも類を見ない様式。庭園は室町時代雪舟が滞在し築庭したと伝えられ雪舟三大庭園のひとつに数えられる。雄大で厳しい須弥石式の名園で心字池の護岸と三尊石、枯滝石組がみごと。二河白道図(重文)や32面の書院襖絵(県指定)、木像阿弥陀如来立像(県指定)など数多くの寺宝がある。
【所在地】益田市東町25−33 【駐車場】有 【問い合わせ先】0856-22−0302 |
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十一代 益田兼見の墓−五輪塔 十代 益田兼方の墓(兼見の父)−五輪塔 [益田兼見] 生年不詳〜明徳二年(1391)。孫次郎、越中守、法名萬福寺殿浄阿祥兼。兼見は山道庶子家の出といわれ、一門中最も知勇兼備の武将であったことから益田惣領家を継いだ。益田氏から分封した各分家は宗家から離れて完全に独立の状態となり、骨肉相食む世相となった。 応安元年(正平二三=1368)大谷土居にあった益田氏邸は全焼したので、三宅御土居に邸宅を移し、永和三年(天授三=1377)剃髪して祥兼と号した。翌年長子兼世に家督を譲り、自ら建立した萬福寺で死去。
【所在地】益田市東町(萬福寺墓地) 【駐車場】無(万福寺より徒歩5分)
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4 | 染羽天石勝神社(そめばあめのいわかつ)(重要文化財) |
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朱塗りの本殿。
本殿左手には末社大元神社、前には拝殿がある。(拝殿は現在神楽殿に改造されたため、史跡指定は解除。)
社伝によれば、神亀2年(725)石神のかたわらに神社を建て、染羽天石勝神社と呼んだが、大同3年(808)熊野十二所権現の分霊を紀州熊野から移し、それ以後滝蔵熊野権現あるいは熊野権現と呼ぶようになった。承平元年(931)京都から浄蔵大徳が来て真言宗勝達寺を建て、明治維新の神仏分離で廃寺になるまで、滝蔵権現の別当寺として神社左手後方の高台にあった。この勝達寺の本尊であった木造不動明王坐像(重要文化財)は、平安時代後期の作といわれ、現在は神奈川県鎌倉市の極楽寺に安置。
滝蔵権現は、永徳3年(1383)の「益田祥兼置文」の中に、滝蔵権現・春日八幡宮・惣社八幡宮(御神本神社)の三社は「当所の根本大社」として、祭礼を怠ることのないよう申し置いている。
[別当寺(べっとうじ) 勝達寺(しょうたつじ)…廃寺]
【所在地】益田市染羽町 【駐車場】有 【問い合わせ先】0856−22−3619 |
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医光寺、庭園(国指定史跡及び名勝)・総門(県指定) 七尾城の大手門と画僧・雪舟の足跡 |
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医光寺は臨済宗東福寺派で応安元年の創建と伝えられる。もと崇観寺の塔頭として建てられたが、その後崇観寺は荒廃し益田家第17代宗兼が医光寺を改築した。室町時代雪舟は当寺に滞在し、庭園を築いたと伝えられる。庭園は雪舟三大庭園(常栄寺、医光寺、萬福寺)のひとつに数えられる名園で、斜面を利用し鶴池に亀島、三尊石、枯滝などを立体的に配し、春にはしだれ桜がいっそう雅趣を添える。
東光寺で亡くなった雪舟は、医光寺に運ばれ荼毘に付されたと伝えられ、境内にはその記念碑として雪舟灰塚がある。総門はもと益田氏の七尾城大手門を移築したもので戦国末期の高麗門の姿をとどめる。
【所在地】益田市染羽町4−29 【駐車場】有 【問い合わせ先】0856-22−1668
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生年不詳〜文明十七年(1485)。松寿丸、左馬介、越中守、法名大雄院殿全国瑞兼。幼くして惣領職を継いだ。益田家では激しい内部抗争に明け暮れしていたことから惣領職(そうりょうしき)への権力を集中しようとして応永三三年(1426)兼理(かねまさ)は「定置手之事」の置文を定めている。兼堯(かねたか)は応仁の乱では大内政弘に属して山名持豊(西軍)に参加。 文明十一年(1479)ごろ山口に滞在していた雪舟が文化の深い造詣者であった兼堯を訪問し、「益田兼堯像」、「花鳥図屏風」を描き、崇観寺、萬福寺の両寺に雪舟庭園を築く。晩年、大雄庵(妙義寺の塔頭)に移り死去。
【所在地】益田市七尾町(大雄庵墓地) 【駐車場】無 |
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七尾城の濠の一部が現在花菖蒲園となっている。
【所在地】益田市七尾町 【駐車場】有(七尾城跡・住吉神社共有)
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城の鎮護神として祭られ、現在の社殿は寛文4年(1664)に浜田藩主松平氏によって建てられた。住吉神社の神は、海上平安を祈願する神。益田氏の初代、御神本国兼が初めて石見の国司として赴任する時、海を渡って下向した。
途中大時化に遭い身の危険を感じた彼は、海神の住吉神社に渡海の安全を祈ったという。無事着任することができたので、住吉の神の加護を感謝した国兼は、これを勧請して上府の地(浜田市)に社を建立。
建久年間(1190-99)益田に移った4代兼高は、七尾の中腹に社を移して、城山鎮護の神とした。
祭礼として、6月下旬の「夏越祭」は茅の輪くぐりともいい、わらで作った茅の輪をくぐって罪や穢れを祓う行事。7月中旬の祇園祭には、一式飾り(数年前まで作製)を並べたりにぎやかな行事。
【所在地】益田市七尾町 【駐車場】有(七尾城跡・七尾公園共有) 【問い合わせ先】0856−22−3579 |
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益田氏が本拠にした城。平野に面した七尾山全体に築かれ、本丸跡の標高は約118m。全長600m以上の大規模な山城で、石垣はなかった。
南北朝時代(1331-92)にはすでに築かれ、南朝方の三隅氏が北尾崎之木戸
に攻め寄せた記録が益田家文書に残っている。
戦国時代末期に、毛利氏の攻撃に備えて大改修され、関ヶ原の戦いの後、益田氏が長門国須佐に移ると、廃城になった。
大小40あまりの曲輪(=平らなところ)や敵の侵入を防ぐ堀切(=尾根
を断ち切った空堀)や土塁などがある。本丸跡の南の曲輪と北東の出丸には、毛利氏の攻撃に備えて築かれたと考えられる畝状空堀群(=斜面の連続竪堀)が残っている。 大手(追手=城の正面)は、医光寺から真向かいになる北向きの谷間と考えられ、大手口の城門は江戸時代に医光寺に移された。
【所在地】益田市七尾町 【駐車場】有(住吉神社・七尾公園共有)
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曹洞宗(そうとうしゅう)。本尊−釈迦如来(しゃかにょらい)。 益田氏歴代の菩提寺の一つ。 妙義寺は鎌倉時代に臨済宗の寺として開かれた。応永年間に兼見の孫、兼家が上野国の直庵(ちょくあん)宗観(そうかん)を招いて再建し、寺領を寄進して自らの菩提寺とした。この頃曹洞宗に改められた。 室町時代には禅宗は武士に広まり、禅僧が政治顧問、外交使節として活躍した。益田氏も京都東福寺系の臨済宗、長州大寧寺系の曹洞宗を保護した。 大内氏とのつながりから妙義寺も大寧寺と関係が深かった。益田氏からもたびたび寺領の寄進を受けたことが妙義寺の古文書に残っている。益田氏数代の位牌、過去帳も残っている。 境内に十五代、益田越中守兼堯の銅像がある。
【所在地】益田市七尾町 【駐車場】有(銅像は目の前) 【問い合わせ先】0856−22−3126 |
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享禄二年(1529)〜慶長元年(1596) 。次郎、治部少輔、従四位下周防守、越中守、右衛門左、全鼎入道。法名大薀寺殿全鼎大居士。 永正八年(1511)将軍義藤より一字をもらい、天文十三年(1544)家督を継いだ。前年大内義隆のもと父尹兼とともに尼子晴久を攻めて敗走。天文二十年(1551)陶晴賢が(大内)義隆を討ち、義隆は深川の大寧寺で自刃。後に毛利元就が弘治元年(1555)(陶)晴賢を厳島で滅ぼし、藤兼は七尾城を堅固にし、毛利・吉見氏との決戦に備えたが、遂に吉川元春に降った。以後姻戚関係となった益田氏と毛利氏は一層緊密の度を深め毛利氏一門となった。
【所在地】益田市七尾町(妙義寺墓地) 【駐車場】無(妙義寺より徒歩5分)
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五更山暁音寺(ごこうざんきょうおんじ) 暁音寺は天文12年(1543)に創建され、その後慶長6年(1601)に増野(ましの)甲斐(かい)守(のかみ)屋敷跡である現在地に移ったと伝えられる。 文化2年(1805)に鐘楼堂などが建立または再建されたことがわかる。
本堂は南向きに建ち、市道片山住吉線に接する境内地の南端部分に山門と鐘楼が位置する。
境内地南側の市道がクランク状に屈曲して「鍵曲(かぎま)がり」を呈しており、これについては中世の七尾城下町の防御に関わる遺構ともいわれてきた。 [暁音寺山門・鐘楼] 山門は瓦は葺き替えられているが、鬼(瓦)や鯱(瓦)、拝巴(瓦)などの瓦は当初のものと思われる。 門全体の構造や意匠は安永9年(1780)といわれる建築年代と大差ないと考えられる。 鐘楼は袴腰部分は修理されているが、それより上部は創建時のものと考えられる。瓦も葺き替えられているが、山門同様鯱(瓦)や鬼(瓦)、拝巴(瓦)などは当初のものと思われる。 楼上に釣り下げられた梵鐘(ぼんしょう)には享保9年(1724)の銘がある。
【所在地】益田市七尾町 【駐車場】無 |
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益田氏の政庁、居館跡。益田家第11代兼見により南北朝期築造されたと伝えられ、戦国時代末期、20代元祥が大改修をした。市教委による発掘調査の結果、館の東が北に突出した長靴形で、規模は最大で東西190m、南北110m、周囲に堀をめぐらし、東西に高さ5mの土塁を築いた堂々たるものであったことが確認された。12C〜16Cにかけて掘立柱建物が繰り返し建て替えられており、木組みや石組みの井戸跡、鍛冶場跡などが見つかった。山城七尾城跡とともに益田氏城館跡として平成16年国指定史跡となった。
【所在地】益田市三宅町 【駐車場】有 【問い合わせ先】益田市文化財課
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12 | 島根県立石見美術館 (重文狩野松栄筆益田元祥像) 「大きな屋根」に包まれてアートと出会う |
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石見地方の特徴である石州瓦を建物全面に使用したユニークな造りで、45メートル四方の中庭広場の周りに美術館と劇場が配置されている。美術館のコレクションは、「森鴎外ゆかりの美術家の作品」「石見の美術」「ファッション」を収集方針とし、特色を持たせている。
【所在地】益田市有明町5-15 【駐車場】有 【問い合わせ先】0856-31-1860 |
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雪舟の郷記念館 (重文雪舟筆益田兼堯像) 庭園を眺めながら雪舟を語らう |
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雪舟終焉地に建つ記念館として平成2年建設。周辺は雪舟山水郷として整備され雪舟が晩年を過ごした東光寺跡に建つ大喜庵、雪舟墓、雪舟硯水霊巌泉、小丸山古墳などがある。館内のロビーから眺められる枯山水風の八景園は雪舟の花鳥図屏風からヒントを得て作庭され、桜、モミジ、松、竹など四季折々の風情が楽しめる。大喜庵と雪舟の墓に通じる和風の回廊からは市街地が一望でき、館内外をゆっくりと散策しながら雪舟の薫りを味わうこともできる。雪舟が描いた益田家15代当主「益田兼堯像」(重文)や雪舟の画系を継ぐ雲谷派の絵画をはじめ益田家ゆかりの資料を所蔵。
【所在地】益田市乙吉町ィ1149 【駐車場】有 【問い合わせ先】0856-24−0500
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雪舟旧跡に建つ曹洞宗の寺院。もと、ここには雪舟が晩年を過ごした臨済宗東光寺が建っていたがその後火災により焼失。曹洞宗の僧大喜松祝は、雪舟旧跡東光寺跡の荒廃を嘆き、その復興を誓って元禄15年(1702)草庵を建立。東光寺の本尊観音菩薩立像(県指定)を納め自らの号「大喜」をとって大喜庵と名づけた。創建当時の様子は「石見州大喜庵記」(1705)に詳しく記されている。境内には雪舟墓、雪舟硯水霊巌泉などがありそれらをめぐりながら在りし日の雪舟に思いをはせることができる。春にはツツジ、秋には紅葉が楽しめる。
【所在地】益田市乙吉町ィ1204 【駐車場】有
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雪舟が晩年過ごした東光寺跡に建つ大喜庵の境内にあり、宝暦4年(1754)再建された。石室内部には「石州山地雪舟廟」と刻印され、旧墓の一部が納められている。雪舟墓の周辺を歴代大喜庵住職の墓が取り囲み、大喜庵創建者である大喜松祝や土地を寄進した百梅翁など東光寺と大喜庵の歴史に欠かせない人々が眠っている。雪舟旧墓は平成17年の雪舟500回忌に「雪舟禅師追褒塔」として、雪舟墓後方に復元保存された。
【所在地】益田市乙吉町ィ1204 【駐車場】有
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今市川沿いの今市は益田氏がここを拠点として日本各地はもちろん中国や朝鮮と交易していた中世の港湾遺跡。益田本郷市(旧益田地区)に対する新しい市場として16世紀後半に成立し17世紀初頭に終息した。河岸にはすぐに荷物の集散ができるように築いた高さ3m〜4mの石垣が残り、また、中央の道と両側の短冊状区画を含む中世の地割り全体が現在も残っている。当時の高津川と益田川はこの今市付近で合流しており、今市は船着き場として最適な場所であったと考えられている。
【所在地】益田市乙吉町 【駐車場】無 【問い合わせ先】益田市文化財課 |
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